黒焦げの水筒が物語る悲劇と日米の友情
12月7日、真珠湾攻撃71週年記念式典の一環として、アリゾナ記念館にて「黒焦げの水筒」慰霊祭が行われました。
公開日:2012.12.17
更新日:2017.06.14
去る12月7日(金)、真珠湾攻撃71週年記念式典の一環として、The Blackened Canteen Ceremony「黒焦げの水筒」慰霊祭が行われました。パールハーバーのアリゾナ記念館にておごそかに執り行われた慰霊祭の様子をお伝えします。
「黒焦げの水筒」慰霊祭とは、1945年6月の空襲時に静岡県上空で衝突し、墜落した米兵の遺品である水筒を使って行われる慰霊祭。上の写真は、この「黒焦げの水筒」慰霊祭を行っている静岡在住の菅野寛也医師。菅野医師は、1972年より毎年、賤機山(しずはたやま)の山頂にある静岡市民への記念碑「平和観音像」と、23人の米兵への石碑「B29墜落登場者慰霊碑」にて、毎年6月20日に一番近い土曜日に日米合同の慰霊祭を行っています。
菅野医師が手に持っているのは、慰霊祭の名前の由来ともなった米兵の遺品の水筒です。墜落現場で発見された水筒には、握りしめていた米兵の指跡がくっきりと残っている様子を見ることができ、壮絶な最期を物語っています。この水筒は伊藤福松さんによって発見され、日米合同慰霊祭が行われることとなりました。その後、伊藤さんと菅野医師が出会い、毎年慰霊祭が行われるようになったそうです。
パールハーバー・ビジターセンターより専用フェリーに乗り込み、アリゾナ記念館へと向かいます。なお館内へは保安上の理由より手荷物の持ち込みができないので、センター内の手荷物預かり所に預けなければなりません(カメラ、携帯、財布などは持ち込み可能ですが、バッグは大きさ問わず持ち込み不可)。
フェリーに乗り込むと、ほどなくして海上に浮かぶアリゾナ記念館が見えてきます。この白い建物の下には、真珠湾攻撃によって沈んだ戦艦アリゾナが、多くの兵士とともに、いまも海の底に眠っています。
アリゾナ記念館の中で、「黒焦げの水筒」慰霊祭が執り行われました。太平洋航空博物館パールハーバーの館長、ケネス・デホフ氏(写真)や、ゲイリー・マイヤーズ・アメリカ海兵隊中佐、菅野寛也医師、そして真珠湾攻撃時の日本軍パイロットだった阿部善治さんの娘・進直美さんのスピーチが行われました。
阿部善治さんは、真珠湾攻撃を経て日本に帰国後、憎み合うことはやめ、友情を育もうとアリゾナ記念館での慰霊祭に参加するようになり、「パールハーバー・チャイルド」という本を執筆されました。90歳で亡くなるまで、毎年慰霊祭を訪れ、1日で250ものサインを書かれていたそうです。その娘さんである進直美さん(写真中央)は、「パールハーバー・チャイルド」を英訳し、善治さんが亡くなってからは、ご主人の享治さん(写真右)とともに毎年慰霊祭を訪れ、バラを献花しているそうです。
水筒を手にする菅野医師(右)と、今回のイベントをアテンドしてくださったナシモト&アソシエイツ社長・梨本昌子さん(左)。おごそかな空気の中で行われた「黒焦げの水筒」慰霊祭。戦争という悲劇をいつまでも忘れてはいけないと心に刻むとともに、いまを生きる私たち、そして次世代の人間が、どのように平和と調和を保っていくか、友情を育むことができるのかという点にフォーカスした、とても意義のある式典でした。
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