パンチボウルの丘の知られざる過去

パンチボウルの丘の知られざる過去

ハワイの歴史・文化に詳しいライター・森出じゅんさんのコラム第36回。今回はホノルル中心部のパンチボウルの丘についてのお話です。

公開日:2023.11.29

森出じゅんのハワイ歴史&神話散歩

愛らしい英名とかけ離れた
ハワイ語の恐ろしい古称とは?

Aloha! ホノルル在住の森出じゅんです。

ハワイ文化に焦点を当て、ちょっと意外なハワイの横顔を紹介するこのコラム、今回は前回のキラウエア火山に続き、「山(丘)の頂き」がテーマ。ホノルル中心部のパンチボウルの丘に焦点をあててお届けします。パンチボウルといえばクレーターに国立太平洋記念墓地が広がることで何より有名ですが、先史時代のハワイアンもまた、さまざまな理由で山頂を訪れていました。時には、少しおどろおどろしい目的での訪問も…。以下、山の意外な過去をご紹介していきましょう。

 

まずパンチボウルとの名は、周知のように山の形がパンチ(フルーツパンチなど飲物)の容器を逆さにした姿に似ているため付いたもの。この呼称は意外に古く、1823年にホノルルを訪れたイギリス人宣教師の日誌に、すでに登場しています。ですが本来のハワイ語名は、なんと「生贄の丘」を意味する「プオヴァイナ」。クレーターの端にあった岩の祭壇に、多くの生贄が捧げられたためです。

昔は山の周辺に4つの神殿があり、その1つのカネラアウ神殿は、人身御供を捧げる類いの神殿でした(全ての神殿に生贄が捧げられたわけではありません)。生贄にされたのは、罪人や戦争の捕虜など。罪人たちはカネラアウ神殿に集められ、儀式を経た後、パンチボウルのクレーターの縁にあった岩の祭壇で焼かれたのだそうです。祭壇だった大きな岩はもう残っていませんが、今ではその周辺に、展望台が設けられています。

 

山頂の右寄りに展望台があり、そこに祭壇があった

 

この不気味な過去にまつわる古称を知る人は少なくなりましたが、今なお墓地周辺の道の名は、プオヴァイナ・ドライブと呼ばれています。そして墓地のゲートにも、その名が。パンチボウルとの名のお陰で何となく愛らしい印象のある山ではありますが、その古称の背景を知って眺めてみれば、ずいぶん異なった印象で目に映るから不思議です。

 

 

「死者の町を生者の町のうえに造るな」
反対の声があがったことも

ほかにもパンチボウルの丘は、さまざまな形でハワイ史に登場しています。例をあげれば47万平方メートルもの広大なクレーターの一部は、古くは王族の埋葬地だった時代も。つまりはアメリカ軍人のための墓地が1949年に造られたはるか以前から、クレーターは墓地として使われてきたということになります。さらには1890年、人口増加が続くホノルルの墓所を増やそうと、パンチボウルのクレーターに(軍人用ではなく一般用の)墓地を造成する計画が持ちあがったことが。もっとも「死者の町を生者の町のうえに造るのか」と反対の声があがり、実現はしませんでした。結局、その59年後には、国立太平洋記念墓地が建設されたわけですが…。

 

国立太平洋記念墓地。第二次世界大戦や朝鮮戦争、ベトナム戦争などで戦った軍人、約5万人の墓が整然と並ぶ

 

また話は前後しますがカメハメハ大王の治世だった1810年代に、クレーターの縁に2台の大砲が設置されたこともあります。ホノルル港、そしてそのすぐ近くにあった砦を守るためです。時が移ってカメハメハ3世の時代、そしてカラカウア王の治世になると再び山頂に大砲が置かれましたが、それは軍事用ではなく礼砲用。ホノルル港に到着する要人歓迎のため、礼砲が撃たれたのでした。

これらのことを考え合わせると、昔はダイヤモンドヘッドではなくパンチボウルこそが、ホノルルの象徴的な山だったような気がします。確かにパンチボウルはホノルルの街を見下ろす絶好のロケーションにそびえており、実は私も日々、パンチボウルを見上げながら暮らしています。以下の写真は我が家の東の窓から撮った朝焼けとパンチボウル(丘の形が背後に埋もれてわかりづらいですが、朝焼けのすぐ左がパンチボウル)。少なくとも私にとっては、パンチボウルはホノルルを代表する山といえるでしょう。

 

 

カウアイ島との因縁にまつわる
パンチボウルの神話

ここで話をクレーターに戻しましょう。ハワイでは、山の頂きは神の領域。山頂やクレーターにしばしば神の物語が残りますが、パンチボウルにも2つの神話が伝わっています。まず火山の女神ペレの物語が1つ。ダイヤモンドヘッド同様、このクレーターも女神ペレによって掘られたものとか(詳細は第30回「オアフ島にもある女神ペレ神話の舞台」を参照ください)。

 

南北の長さは670メートル、東西は550メートル。広大なクレーターは女神ペレが創りあげたもの?

 

さらにパンチボウルにはもう1つ、アウマクア(家族神、先祖神)にまつわる以下の神話が残っています。大昔、ホノルルの酋長がカウアイ島を急襲し、たくさんの捕虜を連れて帰って来た時のこと。一行はパンチボウルの裾野で戦勝祝いを開き、略奪品の山を前に大騒ぎしていました。一方、カウアイ島からの捕虜は恐怖に震え、泣き続けることしかできませんでした。

そんな時、急に地面が大揺れして山が大噴火し、あたりは大混乱に。さらに酋長らは、山頂付近に恐ろしいものを発見! 山の上にスピリットが出現し、ゆらりゆらりと踊り始めたのです。それはカウアイ島の捕虜たちのアウマクア、つまり亡くなった家族や先祖のスピリットでした。子孫を取り戻しに、パンチボウル上に出現したのです。

静かにゆらゆらと踊り続けるアウマクアにおののいた酋長は、大急ぎで捕虜をカウアイ島に返すことに。捕虜と略奪品を入れたカヌーがカウアイ島へと出立し、神官が神の許しを得るため祈りを捧げると、やがて噴火が収束。それ以降、パンチボウルが噴火することは2度となかったということです。

…以上のように現在の名とは裏腹に、スピリチュアルな逸話やとかくの歴史が残るパンチボウル。こういった物語を知って眺めてみれば、その愛らしい名称がなにやらそぐわないものに感じるのは私だけでしょうか…? ホノルルの広範囲から見えるパンチボウルの丘、次のハワイでぜひじっくり見上げてみてくださいね。

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森出じゅん/JUN MORIDE プロフィール

オアフ島ホノルル在住。横浜出身。青山学院大学法学部卒業後、新聞・雑誌・広告のライターとして活動。1990年、ハワイ移住。フリーランスのジャーナリストとして活動するかたわら、ハワイの文化や歴史、神話・伝説、民間伝承を研究中。単に「美しいハワイ」にとどまらないハワイの奥深い魅力、真の姿を日本に発信すべく、執筆を続ける。2012年からハワイ州観光局の文化啓蒙プログラム「アロハプログラム」講師。著書に「ミステリアスハワイ」(ソニーマガジンズ刊)、「ハワイの不思議なお話」(文踊社刊)、「やさしくひも解くハワイ神話」(フィルムアート社)、「Hawaii 神秘の物語と楽園の絶景ーハワイの人々が愛する100の神話」(パイインターナショナル刊)がある。

☆ブログ「森出じゅんのハワイ生活」>>

☆ハワイ州観光局アロハプログラム>>

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